常陽銀行の沿革

常陽銀行の沿革は、明治初期にまでさかのぼることができます。

常陽銀行の沿革とは合併の歴史

常陽銀行の沿革を辿ると中々に面白いです。常陽銀行は茨城県の地方銀行として茨城県の地域経済を支えており、茨城県に住む人や茨城県に拠点を持つ企業にとって、とても馴染み深い銀行です。こうした地方銀行は、とても古く興味深い歴史を持っています。

常陽銀行の沿革は、明治初期にまで遡ることができます。常陽銀行の大元は、第五十銀行と第六十二銀行です。ただの番号名で表された銀行名はなにやら不自然な感じがしますが、これは政府によって政策的に創設された銀行であることを示しています。

江戸時代までの日本には銀行がありませんでした。近代国家の経済には銀行が必要不可欠ですので、明治政府は国立銀行条例という法令を発布して、全国各地に銀行を作らせました。その数は、第一銀行から第百五十三銀行までありました。第五十銀行は土浦に設立され、第六十二銀行は水戸市に設立されました。

国立銀行条例の次に、常陽銀行の沿革において重要なのが国立銀行営業満期前特別処分法です。全国に国立銀行が作られ日本全国の金融システムの土台ができあがると、明治政府は国立銀行営業満期前特別処分法という法令を発します。これは銀行の経営権を民間に委譲するものです。いつまでも国の管理の下にあっては、自由で競争力のある金融が育たないので、全国の国立銀行を私営に切り替えたのです。私営銀行となった第五十銀行と第六十二銀行は、それぞれ他の金融機関を取り込んで大きくなっていきました。

この二行の沿革が、常陽銀行の沿革と言う事ができます。第五十銀行は私営となった後は土浦五十銀行と名称を改め、その後、五十銀行という銀行名に変更しました。第六十二銀行は私営化に際して水戸六十二銀行という銀行名になった後、常盤銀行に名称を改めました。1935年にこの二行が合併して、常陽銀行となります。五十銀行は19の銀行を合併し、常盤銀行は16の銀行を合併していました。つまり常陽銀行は、茨城県にあった37の銀行が集合した銀行であると言えます。

常陽銀行は、設立後も終戦までに4つの銀行を吸収します。ここで常陽銀行の沿革は一旦区切りがつき、終戦後から現代まで常陽銀行は、1996年の茨城中央信用組合の吸収以外、合併をしていません。1990年代にバブル崩壊によって金融機関の統廃合が大きく行われた中にあって、かなり静かであったと思います。これは、常陽銀行が十分に強い基盤を形成していたからでしょう。

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